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約3年間、癌と闘っていた義父が本当にexpire、息を静かに吐いて命を閉じた。日本語の息を引き取るに言葉としてはあたるのだろうけれど、「引いて、しかも取る」というような身体的意図は全く無く、生命が身体から離れていったという感じだ。
私はその場に立ち会わなかったので、彼の三番目の妻であるオードリーと、その娘のスーザンからの話を聞いてその場を想像したのだ。実は彼らもその瞬間には立ち会えなかったという。 時間的には9月2日、私とデイヴ、タイの三人がタイの仕事祝いをコメディーシアターの Esther's Follies でしていた頃になる。私たちが大笑いをしている時にOff にされたデイヴのケイタイにオードリーがメッセージを残していた。 デイヴが折り返し電話を彼女にすると、こんな風だったらしい。 8月半ばに咳が止まらないので入院していたけれども、4,5日もすると元気になった。事実彼は病院から私たちにも電話をくれて割合長い間話した。前よりずっと声に張りがあると思った。その時に、弱くなって利かなくなったしまった腿や足腰を鍛える必要があると説明した。 ところが、その「筋トレ」が裏目に出てしまったようだ。ずっと通っていたSequimのリタイアメントホームの近くのリハビリテーションセンターでは、 「今日はどのくらいできたかチャートに書き入れてください」 とか、マシンの説明などをしながらセラピストたちがエンジニアの義父を一人前に扱ってくれた。ところが、病院の近くのセンターでは、覇気の無い老人たちが十把一絡げに子供のように扱われながらボール投げをしていて、自分もそのうちの一人になった途端、ガタッと持ちこたえていた何かが崩れてしまって、あれほどタフで「九つの命を持っている」と言われた人が一日ごとに弱っていってしまった。 覚悟を決めたオードリーはホスピスのお世話になって、病院からリタイアメントホームの自分の家に連れて帰り、痛み止めは処方してもらったものの、栄養剤の点滴や無意味な延命処置を頼むことはしなかった。 それは義父の意志でもあり、前もってそのように明文化してあった。何日かして、ポートランドに住むスーザンが訪れた。するとオードリーが娘と一緒にいることが分かって安心したのか、二人が義父の部屋を出て車に何か取りにいっているほんの短い間にそっと別れていったらしい。 はっきり言って義父やその妻オードリーとは礼儀正しい付き合いでこの24年やってきたと思う。 デイヴには私と結婚する前に様々なわだかまりがあったらしく、喧嘩もしないかわりにべったりとした親子の情も無く、三人の子供もそれを察知していて、おじいちゃんやおばあちゃんに平気で甘える事はなかった。それは親として、ちょっと可哀想だとも思ったけれども、日本の母がその分大いに可愛がってくれたし、友達が「ヤマンバ」と呼んでいる彼女のアメリカ人の義母との確執などを聞くと、なんだ無いものねだりじゃないか、と自分を笑った。 さて、アメリカでお葬式というか、教会でのメモリアルサービスには何度か出席しているけれども、義父とオードリーはどのようなお葬式をするのだろうと考えた。二人はどこの教会や宗派に属するわけでもなく(カリフォルニアには宗教を離れた人が多いと聞く)、それはそのままデイヴと私のような人間の将来に起きることでもあるからだ。 オードリーから簡単なメモリアルサービスをリタイアメントホームの集会場で開くという知らせがあったので、デイヴが 「じゃ、行ってくる」 と言うので、 「これには貴方だけじゃなくて、私も子供たちも全員が行くべきだ。人生の大切な節目で、大人がそういう場所でどのように振舞うかを体験しておく必要がある」 と言うと、彼も賛成して、それからエリカをミュンヘンから、ライアンをアナポリスから呼び寄せることになった。タイは私たちと一緒にオースティンにいるけれども、仕事があるので、シフトを調整してもらって、9月9日にシアトルで合流した。 10日のサービスの日に、結婚してから初めてスーザン、オードリーの長男、グレッグ、それにデイヴのお姉さんと会った。スーザンはポートランド空港のレストランを統括している大柄で快活な人、グレッグはカリフォルニアの小さな町の消防所長をしていて、二人ともとてもいい感じの人だった。 お姉さんはデイヴが避けたくなるのも納得したけれども、ほぼ同年代のスーザンとグレッグに今まで何故、デイヴが積極的に会おうとしなかったのが不思議で、また、いい関係が持てたかもしれないのに時間を無駄にしてしまったのが残念だと思われた。それはエリカも同じ考えだった。二つの家族が一緒になった時、それぞれにティーンエイジヤーがいたわけで、その時には大変な事情があったのかもしれない。 デイヴは幼年期を一緒に過ごした二番目の継母が好きで、そのためその継母を取り巻く家族が一番彼にとって近い。 事実、彼女やステップブラザーは我が家に来たことがあるし、今年、久々にThanksgivingを一緒に過ごす計画があるのだけれど、オードリーたちとはその関係がない。これはデイヴとオードリー、オードリーと義父、義父とデイヴとのその当事の関係が今よりずっと複雑だったのだろう。 集会場には40人ほどの人が三々五々集まってくれて、その中には12月に訪れた時に話した人が混じっていた。デイヴが作った義父の写真と思い出集、花、それに義父が生涯誇りにしていたMITの卒業証書が飾られた簡素な式場だった。 デイヴが思い出を語り、MIT時代に放送局で一緒に働いた、その当事ハーバードの学生だった友達がDJのような語り口で若い頃の義父を語った。 そして、義父を三人目の父親と慕うビルマ人のジェフが如何に自分を導いてくれたかと感謝して、あと二人の友達が思い出を話して、それで式は終わった。 誰もが義父は一生をきちっとやり終えて、無念なことはないと明るい涙のない式だった。彼の思い出を通して生きている私たちが繋がる集まりだった。式の後、家族と友達数人が集まって夕食を供にして、それで全て終わった。 この後、オードリーが亡くなったら義父の灰と彼女の灰を一緒にして、二人の思い出の地、カリフォルニアのメンドシーノに撒くことが遺言されていると聞いた。なんだ、私とデイヴが決めている最後と余り変わらないじゃないか。 私たちのものは、レイクオースティンにベンチを寄付して、そこで集まりをしてもらい、その後、家族がダイニングルームみたいに使うWaterlooIce Houseで食事をして、飲んで騒ぐ。 最終的には太平洋上に灰を撒いて終わる、そういう段取りを決めている。義父の簡素なメモリアルサービスは子供を含めた、私たち全員に実際のモデルを提供してくれた。 ことによると、8月半ば、義父は元気になった時にお別れの挨拶を電話でしていたのかもしれない。 「私の娘になってくれてありがとう。ライアンが大学に行ったらシアトルに移り住んだらどうか。いい場所だし、ここから近いし」 と、ライアンが既に去年、Naval Academyに入って一年が経ったことも忘れてしまったように言った。私はそれを敢えて訂正することもしなかったし、 「そうできたらいいですね。それにしても、お父さんがいい場所で暮らしていて私も嬉しいです」 と応えた。
by tomokoh9T
| 2010-09-14 17:55
| 悲喜叫興の日々
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